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ボクシング世界チャンピオン・山中慎介(やまなかしんすけ)選手の二十歳のころの回想記
日時: 2017/08/14 12:56
名前: 二十歳の頃の回想記

(*)ボクシング世界チャンピオン・山中慎介選手の二十歳のころの回想記
(サンケイスポーツ掲載)

 本当にダメ人間だった。二十歳のころの自分は。当時は大学生だったけど、いま思い出しても恥ずかしいぐらいだよ。
 思い出したくない時期なので、これまであまり話したことはなかったけど、当時はボクシングへの情熱を完全に失っていた。その理由は自分の中ではっきりしている。
 南京都高3年のとき、「とやま国体」で個人(バンタム級)、団体で優勝した。でも、これが自分の限界だと思っていた。ボクシングを続けるつもりはなかったけど、専修大からスポーツ推薦の話が舞い込んできた。試験を受けなくていいし、授業料は全額免除。こんないい条件を断る理由がない。「まあ、東京に行ってみようか」というぐらいの軽い感覚で入学した。専修大には失礼な話だけどね。
 燃え尽きたような状態で上京したから、勉強にもボクシングにも強い意欲を持てなかった。スポーツ推薦だから単位は簡単にくれるだろうと高をくくっていたら、1年で取ったのは10単位。このままじゃ卒業できないと焦って、2年になると出席重視の授業を必死に受けていた。その成果もあって、2年では50単位を取ることができた。こんな苦い経験があるせいか、今でも単位が足りなくて大学を卒業できない夢を年に何度も見る。随分時間がたっているのに…それだけ不安があったということだね。
 授業の合間に励んだのは、ボクシングではなかった。寮が生田キャンパス(川崎市)の中にあって、練習が終わるとほぼ毎日、駅前のパチンコ店に入り浸っていた。その店はとにかくよく出ると地元で評判で、一日に30万円ぐらい稼げるときもあった。大学生にとっては大金だったけど、貯金なんてしなかった。稼いだ金をまたつぎ込む。その繰り返しだった。
 もちろん、いつも勝てるわけじゃない。親には申し訳ないけど、実家からの仕送りを2、3日で使い果たしたこともあった。今思えば、適度に楽しむレベルを超えていた。寮では3食用意してくれたから食べるには困らなかったけど、お金がなくて何度も冷や汗をかいた。今もリングで冷や汗をかくことがあるけど、あのころの経験が生きているような気がするな。
 ボクシング部では、1年からレギュラーで関東大学リーグ戦に出してもらった。でも、本気では取り組んでいなかった。リーグ戦では(現在より2階級上の)フェザー級だったので、1年のときの成績は2勝3敗と負け越していた。2年では4勝1敗。負けても、悔しいという気持ちは全くなかった。これでは強くなれるわけがない。
 もうすぐ13度目の防衛戦を迎える。“冬眠期間”だった二十歳のころの自分には想像できない試合。でも、あの冬眠があったから今の自分があると思える。これが運命ってやつなんでしょうね。
 ボクシングは大学で最後にしようと思っていた。普通に就職しようと考えて、友人との話の中では冗談半分に大工や庭師もいいなと話したこともあったけど、実は専修大学4年だった21歳の夏には地元の消防士の採用試験を受けたんだよ。
 公務員試験の勉強なんて一日もしなかったから、合格するわけがない。今思うと、どうして消防士になろうなんて考えたのか、自分でもよく分からない。若さゆえの、突発的な行動だったんだろうね。
 ボクシングへの情熱は冷めていたけど、毎年5月に始まる関東大学リーグ戦はボクシング部にとって重要な試合だった。3月からは練習量が倍になり、主将に命じられた4年のときには初めて懸命に練習した記憶がある。
 その年(2004年)、川内将嗣(08年北京五輪ライトウエルター級代表)が入学してきた。高校3冠の実績を持つ後輩に負けたくなかった。アマでは階級に関係なくマスボクシング(パンチを当てない実戦練習)をするのが慣例で、階級が上の川内と拳を合わせることもあった。4年生として主将として、1年に負けられない。そんな思いがあった。
 後輩の刺激を受けた影響もあって、リーグ戦では自分が5戦全勝してチームは2部で優勝した。1部との入れ替え戦ではチームとしては勝てなかったけど、自分は主将として勝つことができた。この結果に満足したのか、また“ダメ人間”に逆戻りしてしまった。
 就職のことも真剣に考えずに迎えた国体。高校、大学で続けてきたボクシングの集大成として臨んだが、初戦で負けてしまった。当時のルールは15ポイント以上差が付くとその瞬間、自動的に試合がストップになる。2回、わずか6分で試合が終わってしまった。
 7年間取り組んだボクシングが、あっけない幕切れを迎えた。体が急に熱くなったのを今でも覚えている。「このままではボクシングを辞められない」。内なる自分の悲痛な叫びのようなものだった。それと同時に、忘れかけていたボクシングへの情熱が一気に湧き上がってきた。
 高校ではタイトルを取ったけど、大学では無冠だった。監督は週に1度程度しか練習を見に来ないから、午前は30分ぐらいのロードワーク、午後は2時間のジムワークで、高校時代に比べてかなり楽だった。そんな環境に甘えていたのか、高校時代に蓄えた“練習の貯金”を2年ぐらいで使い果たし、「実力を発揮していないんだから、負けて当然」と自分に言い訳をしていた。
 国体での初戦敗退は大きな衝撃だった。「プロに行く」と、そのとき決めた。ようやく覚醒した感じ。もう就職活動をする必要はなかった。プロを決意した冬から、結構な数のジムに足を運んだ。 

 所属している帝拳ジムのホームページで、選手紹介コーナーにある将来の目標という欄には今も「世界チャンピオン」と記されている。これは22歳の入門時に自分が書いたものだ。専大時代に大した実績もなく、周囲の人は「世界王者になるなんて、アホちゃうか」と笑っていたと思う。入門したてのころは、全然注目されていなかった。
 そもそも帝拳ジムへの入門自体、あまり気が進まなかった。大学4年の冬、就職活動のようにいくつかのジムへ顔を出していたころ、大学のコーチから「帝拳はどうだ」と勧められた。でも、粟生(あおう)隆寛(元WBC世界フェザー級、Sフェザー級王者)が所属していたことが心に引っかかったんだ。
 高校3年だった2000年、「とやま国体」決勝で当時習志野高1年の粟生を下してバンタム級で優勝した。その後、自分が大学4年間を中途半端に過ごしている間、粟生は史上初の高校6冠を達成して鳴り物入りで帝拳に入門していた。粟生と自分のギャップが、あまりにも大きすぎた。
 帝拳で練習を見学した瞬間、そんな卑屈な気持ちが一気に吹き飛んだ。当時の帝拳には粟生だけでなく西岡利晃さん(元WBC世界Sバンタム級王者)ら、将来の世界王者候補たちが必死に汗を流していた。ピリピリと張り詰めた空気感。「ここなら俺も強くなれる」と直感した。ボクシングを始めようと決意した中学3年のころのワクワク感が、蘇ってきた。
 中学時代は野球部に所属していたけど、辰吉(丈一郎)さんの試合を見て高校ではボクシングをやろうと決めた。中3の冬、関西のボクシングの名門である南京都高を訪れ、黙々と練習をこなす先輩たちの姿に「ここなら強くなれる」という直感で、迷わず入学を決めた。中学の卒業文集に「WBC世界チャンピオンになる」と書くほど本気だった。片道2時間半の通学も苦にならず、高校3年間は練習を一日も休まなかった。 あのころのような情熱が戻っても、結果は比例しなかったな。06年1月のプロデビュー戦は判定勝ちしたが、2戦目が引き分け。3、4戦目に左ストレートで倒してTKO勝ちしたが、その後KOはなく、8戦目まで6勝(2KO)2分け。負けてはいないが、平均的な戦績だ。スパーリングではいい動きができても、試合になると体が思うように動かない。
 プロ入りを決めたとき、父(昭則さん)に「自分の決めた道を進めばいい。その代わり、責任は自分で負え」と言われた。大学時代とは違い、もう親には甘えられない。プロボクサーといっても実績はなく、ファイトマネーだけで食っていけるわけもない。大学時代に真剣に練習しなかったツケも伸び悩みの一因かもしれないが、当時の貧乏生活の影響もあったと思う。練習は苦にならなかったけど、貧乏はつらかった。

 プロ入り後も生活費を稼ぐため、アルバイトを始めるしかなかった。選んだのはラーメン店とか弁当店とか、飲食店ばかり。まかないがあるから、食事にはありつける。当時としては当然の選択だった。
 最も長く勤めたのは新宿のラーメン店で、4年ぐらい働いたかな。最初は何もできなかったけど、働いているうちにいろいろなことを身につけて、最後の方は仕込みやラーメン作りまで任されるようになった。その店はもう閉店してしまったけど、当時のバイト仲間の数人は今でもチケットを買って、試合を見に来てくれている。貧しかったけど、楽しい思い出の一つだね。
 とはいえ、必死に働いても稼げるのは1カ月に15万円ぐらいだった。ギリギリの生活で食事やファッションなどにかけるお金はなかった。飲食店は朝の仕込み時間から店に出なければならず、バイトの時間が長くなったしわ寄せで練習時間が足りなくなる。次の試合もなかなか決まらない。“ないない尽くし”で、いつもイライラしていた。
 そんなとき、また大学時代のようにパチスロでストレスを発散することがあった。負けが続くと熱くなってしまい、生活費までつぎ込んでしまうことがしばしば。5万5000円の家賃を2、3カ月滞納することもあった。「そのうち追い出されるかもしれない」と戦々恐々としていたが、昔ボクサーだったという高齢の大家さんは「まあ、しようがないな」と言って許してくれた。
 3、4カ月に1回入るファイトマネーで滞納していた家賃を支払って、何とか追い出されずに済んだ。本当に助かった。今はもう交流がないのだけど、もし大家さんにお会いできるのなら改めて感謝の気持ちを伝えたいくらいだ。
 当時の担当トレーナーからのアドバイスもあり、朝のロードワークの時間を確保できるようにアルバイトの時間をずらしてもらった。2年目以降は食事面を見直し、野菜、肉、炭水化物をバランスよく食べるよう心掛けた。ロードワークをしっかりできたことで下半身に安定感が出て、食生活の改善で減量中でも体調を崩さなくなった。
 別人のような生活のおかげもあって、下半身との連動から左ストレートを打つ自分のスタイルを確立できた。9戦目から6戦連続のKO勝ちで日本王者となり、その勢いのまま2011年11月、世界チャンピオンになった。ベルトを手に入れて、ようやく貧乏生活からも脱出できた。
 大学4年間、ボクシングに励んで結果を出していたら、プロに進むことはなかったと思う。若いころの失敗や挫折が、その後の人生を大きく変える可能性がある。二十歳のころの“ダメ人間”から世界チャンピオンになった自分が、それを証明できた。こんな人生が、これからボクサーを目指そうとする人の参考になれば、この上ない喜びだ。 (おわり)


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